普門軒の禅のミカタ

普門軒のブログ:毎週月・金に更新、できれば・・・

教え

『般若心経』を読む(1)

新年あけましておめでとうございます。皆様におかれましては、穏やかな新年をお迎えのこととお慶び申し上げます。昨年は、私たちの社会において、様々な動揺が起きた一年でした。

般若心経 現代語訳その3

これまで数ヶ月にわたり拈提してきました般若心経の現代語訳の第3弾が出来ました。この第3弾はもう少しわかりやすくなったと思います。今回はとくに自信をもったものになりました。一度、読んでみてください。

摩訶般若波羅蜜多心経 現代語訳完成!!

般若心経の現代語訳に挑戦してきましたが、ある程度の形がようやくできあがりました。今後は法事などの際には、般若心経をお経としてお読みする前に、この現代語訳を読んでから始めようと思います。これから数回にわたって般若心経のお話をさせていただきま…

信心銘の話〈その22〉

存在がそのまま非存在であり、非存在がそのまま存在だ。もし、そうでなければ、決して固守する必要はない。任意の一つがそのまま総てであり、総てはそのまま任意の一つである。もし、こいつがいけたら、もう大丈夫、それが究極だ。まごころは相対的なもので…

信心銘の話〈その21〉

真なる世界は、相手もなければ自分もない。さしせまってそれにピタリでありたいなら、ただ相対であるなと言うばかりだ。相対でないからすべての一つであり、そこに包み込まぬものはない。世界中の智者は、誰でもこの原理に帰着する。真理は時間的に延びたり…

お経の話4 お経の解釈の結果

仏典の種類には大きく『経』『律』『論』の三種類ございます。『経(きょう)』はお釈迦様の教えをまとめたもの。『律(りつ)』は仏教徒としての行動規範をまとめたもの。『論(ろん)』は経や律を研究して注釈をまとめたもの・・・。

お経の話3 『律』『論』について

仏典の種類には大きく『経』『律』『論』の三種類ございます。『経(きょう)』はお釈迦様の教えをまとめたもの。『律(りつ)』は仏教徒としての行動規範をまとめたもの。『論(ろん)』は経や律を研究して注釈をまとめたもの・・・。

お経の話2 『経』について

経典の種類には大きく『経』『律』『論』の三種類ございます。『経(きょう)』はお釈迦様の教えをまとめたもの。『律(りつ)』は仏教徒としての行動規範をまとめたもの。『論(ろん)』は経や律を研究して注釈をまとめたもの・・・。

お経の話1 お経はお釈迦様にまつわるお話の全集

「お経」という言葉には、敬意あらわす「お」がつきますからもちろん日本語です。中国語では「お」をとって、「経」といいます。これは古代インドの言語サンスクリット語の「スートラ」を漢訳した言葉です・・・。

信心銘の話〈その20〉

心がピタリと一つになって、作為はすべて尽きはてている。ためらいは完全に底を払って、純なる精神が調和を保つ。すべて何も残らず、思い起こすことはない。形のない光明がちゃんとものを映し出して、こちらの意識を働かせるまでもないのである。思慮分別を…

自覚を求められる宗教

宗教は一般的に人々の救済をその教えのテーマにしている場合が多いです。キリスト教やユダヤ教、イスラム教にしても、その教えの中心には人々の救済が説かれています。日本の神道の教え同様の面をみることができます。しかし仏教というと・・・。

般若心経 現代語訳その2

般若心経の現代語訳の第2弾が出来ました。この第2弾はかなり大胆な訳になりました。でもとても自信をもったものになりました。一度、読んでみてください。

信心銘の話〈その18〉

その自然には、その根拠が消えてしまっていて、何も比べることができない。動きを停めようにも動きがなく、静止を動かそうにも静止がない。2つの立場が成り立たない以上は、1つの立場がどうして成り立とうか。とことんまでつきつめられて、そこには手本と…

信心銘の話〈その17〉

眼が覚めている時は、どんな夢も見ることはない。自分の心が変化しなければ、様々な存在はさながらに一つである。さながらに一つであるその本体は不可思議で、ごろんとしていて手がかりがない。そこでは、様々の存在が同じに見られて、自然の状態に帰るのだ。

信心銘の話〈その16〉

眼が覚めている時は、どんな夢も見ることはない。自分の心が変化しなければ、様々な存在はさながらに一つである。さながらに一つであるその本体は不可思議で、ごろんとしていて手がかりがない。そこでは、様々の存在が同じに見られて、自然の状態に帰るのだ。

般若心経 現代語訳その1

約2ヶ月ブログを休んでおりました。2番目の子供が生まれ、ガタガタしており、なかなか集中できず、申し訳ありませんでした。今回、ブログ再開として、毎日読んでいる般若心経を現代語にしてみました。今回はその第1弾です。何度か改変していこうと思って…

信心銘の話〈その15〉

心を見失うから寂と乱の対立を生み出すが、気づけば何の良し悪しもない。およそ対立なるものは、わけもなくこちらが物をはかるからである。夢と幻想と空虚な華を、どうしてわざわざ掴もうとするのか。手に入れるとか失うとか、正しいとか正しくないとかいう…

信心銘の話〈その14〉

六官の対象に逆らわなければ、元々ブッダの悟りと変わりないのだ。智者はことさら何もしない、愚者は自分の縄で自分を縛っている。存在はおよそ変わったものなぞないのに、人は訳もなくっつきたがる。自分の心で自分を使うことは、とんでもない間違いではな…

信心銘の話〈その13〉

本性のままで大道と一致し、ゆらりゆらりとのんびり歩いて何の悩みもなくなる。心を一つの対象にくくりつけると真理にはぐれ、心が沈みこんで自由を得ぬ。自由を得ぬから精神をすり減らすのである。どうして道に遠ざかったり、近づいたりする必要があろうか…

信心銘の話〈その12〉

本性のままで大道と一致し、ゆらりゆらりとのんびり歩いて何の悩みもなくなる。心を一つの対象にくくりつけると真理にはぐれ、心が沈みこんで自由を得ぬ。自由を得ぬから精神をすり減らすのである。どうして道に遠ざかったり、近づいたりする必要があろうか…

信心銘の話〈その11〉

大道はそれ自体が広々としていて、歩きやすいとか歩きにくいとか言うことがない。考えの小さい人は小さいことを心配して、道を急げば急ぐほど、いよいよ道が遠くなる。物にとらわれると尺度を失い、きっと間違った道に入り込むものだ。手を離せば、元々自然…

信心銘の話〈その10〉

主観は客体が消えるとともに消え、客体は主幹が亡くなるのに伴ってなくなる。客体は主観に対して客体であり、主観は客体に対して主観である。両者の区別を知りたければ、もともと同一の空だと知れ。同一の空がそのまま二つの部分と変わらず、あまねく無数の…

信心銘の話〈その9〉

相対は、絶対から出てくるものだ。絶対をも固執してはならない。心が起きさえしなければ、どんな存在にも罪はない。罪がなければ存在はないし、起きなければ心にはならぬ。

信心銘の話〈その8〉

根本にたちもどると秘密が手に入るが、映されたものを追うならば大本を見失う。ほんのしばらくでも、こちらの方が映されたものを押し返させば、眼前の空虚な世界の上にでてしまう。眼前の空虚な世界がくるくる変わるのは、すべて迷いのせいだ。心理を探すに…

信心銘の話〈その7〉

一つのところに達しなければ、両方とも失敗だ。 有るものを払いのけると何にもなくなってしまい、空についてゆけば空を見失う。 説明が多く分別が多いほど、いよいよ事実にぴったりしない。 言葉を断ち分別を尽くせば、どこも普遍妥当せざるはない。

信心銘の話〈その6〉

一つのものとして心が落ち着くと、あとかたもなく自然に何もなくなってしまう。心が騒ぐといって静止させることになれば、静止させるほどますます心は騒ぐ。動と静の両端にかかわりあうだけのことであり、どうして一つのところがわかろうか。

信心銘の話〈その5〉

対象的なものを追っかけてはならず、空という考えにとどまってもいけない。

信心銘の話〈その4〉

道は大空のようにまどかで、足らぬところも残るところもないのだ。より好みするからこそ、不自然なことになるのである。

信心銘の話〈その3〉

つくの離れるのという心こそ、人を疲れさせる病気にほかならぬ。道の秘密を見分けぬならば、心を静めようとしても無駄だ。

信心銘の話〈その2〉

好き嫌いさえしなければ、すっぱりとすべて透明だ。毛の先ほどのずれができると、天地ほどもかけはなれるのだ。目のあたりに見たいのなら、それについて行くという気持ちがあってはならぬ。